記録的な巨大台風19号も去り、急に気温も下がって秋らしくなってきました。お隣の田んぼの稲穂も黄色く色付いてきて、秋の深まりを感じます。
今回の台風では全国的に大きな被害が出ています。10月17日現在、70名を超える人々が亡くなっているそうですね・・・
被害に遭われた方々、そのご家族の皆様、謹んでお見舞いを申し上げます。
私の娘も神奈川県に住んでおり、台風が住居地を通過したようですが、何事もなく無事に一日を終えられたようで、神様に感謝しております。
災害があるといつも考えること。自分の人生を(生活ではなく)幸せに生きるということはどういう事なのか・・・何のために生きているのか。
方向性は抽象的ではありますが、中身は具体的に考えていきたいと思います。
あなたは誰かのために生きていますか?
突然すみません。あなたは誰かのために生きていますか?
家族が居れば家族のために、大切な恋人や友人が居ればその方のために・・・と、すぐに思い浮かぶかもしれませんが、子供は巣立ってしまった、伴侶は居るけれどもこの人のために?? 自分は独身で恋人も、そんなに大切な友人も居ないし。
そういった声、身近な友人でもよく聞きます。
私自身も、まぁ私が死んでもさほど困らないだろう、と思っています、死ねば家のローンはなくなるし、遺族年金も支給されるのかな?
50歳を過ぎて、子供たちもオジサンオバサンになりつつありますし、もう、そんなに人のために生きている気はしておりません(苦笑)。
直接的にはそうです。でも、間接的にはどうでしょうか?
『人間は独りでは生きられない』
私はずっと、この言葉を直接的な意味合いで捉えていました。自分を守ってくれる家族とか、大切視してくれる友人とか。
でも、災害時のSNSをリアルタイムで追いかけていて、気付いたことがあります。
『人間は独りでは生きられない』 『人間は独りでは生きていない』
便利な現代の生活が成り立っているのは当たり前?
自然災害が起こる度に思うことがあります。それは、いつも当たり前に出来ていることって、実は当たり前ではないということ。とても有難いんだ、ということです。
屋根の下で、自分のお布団で寝られて、蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば電気が点いて、冷蔵庫には食べ物があって、レンジでチンすれば温かいものもすぐに食べられる。
いつもやっていることだけど、普段の生活の中で、それがどれだけ有難いことか考えることってありますか?
私は、毎朝起きたら当たり前に電気を点けて、蛇口を捻って水を出して、ガスでお湯を沸かしながらテレビを点けて、その間にまた水を使って歯磨きをして。
お散歩中に神社でお礼を言うことはあっても、ライフラインにお礼を言うことは無いですね・・・
当たり前だと意識する以前の問題です。目に見えないものは見ていません。
世の中は貴方と誰かの仕事で出来ている
何かのCMであったようなキャッチフレーズ。缶コーヒーのお仕事シリーズでしたっけ。まさにそのことを心から考えさせられた1晩と2日間でした。
世界は誰かの仕事でできている
テレビコマーシャル Georgia より
私たちの生活になくてはならないライフライン。なくてはならない、というか生きていけないもの。なのに、これらはスイッチを入れる、コンセントを挿す、蛇口を捻る。そんな簡単な動作ですぐに手に入れることができます。
食べ物、身の回りのものが必要になったとき。それらを手にするにはお金を持ってスーパーやコンビに行けば、ほぼ100%の確率で入手することができますが、それがどんなに有難いことか。
お肉が食べたい、野菜もほしい。ジュースも飲みたいね、インターネットでゲームしよう、今夜はあのテレビが見たい・・・
そのどれも、全て自分だけの力で手にすることは不可能です。誰かがどこかで産み出す仕事をしてくれていて、自分自身もまた何か世の中の駒として働いていて、その対価を便利さと交換しているんですよね。
キャンプに行ったことはありますか?短い時間のキャンプでも沢山の荷物を用意して行きますよね。最近では手ぶらキャンプもあるんでしょうけど、いろんな物を用意してもらって、その対価を支払っていますよね。
我が家は子供たちが小さいころ、よくキャンプに行っていました。だいたい2泊3日の日程で行きました。電源の無い、原始的なキャンプ場を好んで行っていたので、寝る場所・寝具、ランタン・懐中電灯、ガソリン・バーナー、水、といったライフライン、食料、雨の用意、車のガソリン、連絡・・・と、結構用意周到にして出かけていました。
それでも、自分で用意はしても自分では創造できません。
誰かが会社で製造したものを流通ドライバーによって運ばれて、届いたお店で店員さんの手によって陳列、販売されたものを使っているだけです。もっと言えば、その材料はどこから?トラックのガソリンは?トラックは?
ライフラインもそうです。『なんのために働いているか分からない』なんてことも多くあります。生きていく希望が無い、よくあります。安月給で生きていくのがやっとで、人の為とか考えられない・・・現代社会そのまんまです。
それでも、廻り回って、あなたの仕事が間接的に誰かの役に立っているのです。そう気付いたのは台風のおかげ。
世界は誰かの仕事で出来ていますが、あなたもその『誰か』なのですよね。
持ちつ持たれつ生きていく
今回の台風では、巨大台風ということもありますが早くから。飛行機の欠航、電車の計画運休、高速道路の閉鎖など、交通網が止まることが決まっていました。
そんな中でも営業しようとする会社、出勤させようとする会社があって、SNSの中では結構話題に上っていましたが、私個人の考えとしては、普通の経済活動をする企業は休め!従業員の安全を第一に考えろ!! というところです。1日休んだからといって潰れるなどとは思えません。
お客とお店、従業員と会社、交通網と経済活動、親と子、人間とペット、国と地方自治体・・・
上げればキリがないですが、どちらもお互いにその存在失くしては難しい関係です。双方が対等であればその関係、その商売は豊かに成長していくと思います。どちらかが優位に立とうとするから関係性が崩れる。お互いにリスペクトをし、持ちつ持たれつの関係であるということをしっかりと意識することが重要と考えます。
生きていてもいいですか?
我が長男は友達がいません。仕事もしていません。彼女は居ます、 一旦別れた時期もありますが 10年以上前からつきあっています。
最後にアルバイトを辞めてからの1年半、家族と彼女、病院の方、以外の人と係わっていません。先の章で書いたことをベースに考えると、彼は誰かの仕事で成り立っている、そのコマにはカウントされないことになります。問題行動、問題発言を起こすこともあり、その都度人間関係は狭くなってきました。
それでも、家族にとっても彼女にとっても、生きていて欲しいです。
生きていてもいいですかと誰も問いたい
その答えを知っているから誰も問えない
『エレーン』中島みゆき『生きていてもいいですか』より抜粋
中島みゆきさんの古いアルバム『生きていてもいいですか?』の中に『エレーン』という歌があります。中学の頃よく聴いていました。
心に響く、というよりは、ズシンと重くのしかかる感じです。とてもとても重い歌詞です。気になられた方は検索してみてください。重いです・・・
死はすぐそこにある
つい先日の夜中、ADHD自宅療養中の次男がぶらりと散歩に出かけました。
ふと気付くと姿が見えず、何か悪い予感がしたので電話を架けたんです。普段は絶対そんなことはしないんですけど。
長いコールの後に気の無い「うん」という返事が聞こえ、言葉は発さないものの、とりあえず必ず帰ってくるようにだけ声をかけました。
その1時間後、無事に帰ってきたのですが、実際彼は『そのまま姿を消そうか、荷物を少し持って失踪しようか』と考えながら、行くあてもなく歩いていたそうです。
その前に特別何があった訳ではなく、ただただ無力感と無気力に包まれていたようです。
生きている意味、生きていく自信、生きていく希望、そんなものを全て見失い、ブラックホールへ吸い込まれていっていたようです。
食欲もあるし、ウツの症状ではない、と医師にも言われていたのに・・・
死はいつでもそこにある、そんなことを改めて感じた夜でした。
それでも生きる選択を
明るく幸せに生きているように見える人でも、失恋したり、誰かに裏切られたり、生きがいが無くなったり・・・ ちょっとしたきっかけで自信がなくなる瞬間はあるものです。
もちろん不運な人、障害がある、他人と異なる部分が多い、など生きにくい人の場合は、そういった思いは瞬間ではなく常に付き纏っていることでしょう。私も子供の頃はいじめられていたので、基本的には常に頭にあります(だからこそこの歌詞が忘れられない)。
でも、生きていて欲しい、そう思ってくれる人がいる間、逆に、生きていて欲しいと願う人(ペット)がいる間は、その思いが宇宙に繋がっている、そんな御伽噺風に考えてみてもいいかもしれませんね。
そんな脳天気に考えられないときは・・・とりあえず食べたいもの食べて寝ちゃいましょう!!